うみのくるしみ

よっこらしょっと重い腰をあげてさ

自立とは

ケアの概念を知ってから二年、「なんでそんなことするんですか?」と言われて苦しかったのが去年、その真意を噛み締めているここ最近。ソウルメイトに指摘された"諦めてない"問題、自分でも訳がわからぬ苛立ちと停滞感、全てがつながった。

私がケアと呼んでいる、心遣いの根源が見えた。私が何をケアして、それがどのように影響を与え、現在に響いているか。本当は何を感じ、何を思っていたのか。どうしたかったのか。何を殺して忘れてきたのか。

本心を曝け出すのは、私だけ解放されて幸せになろうとしているみたいで、それは母を傷つける気がしていた。だけどその遠慮が私のケアだった。幸せを感じるのはつくづく勇気がいる。その勇気を持てた人だけが幸せになれるのだと思う。

優しさが足りない

なんかこう、私に必要なのは「祈り」とかそういう類のものなのかもしれない。

根本的に優しさみたいなのが足りてなくて、どっかで落っことしてきたんだろうなと思う。優しさは心だとか言われたらもう泣きながら埋まるしかない。技術であってほしい。でも技術だとしたら、テクニックに逃げてどうせ私はまた斜に構えるんだろう。

力強く打開していく力はあるんだけど、一周まわって暴力的になってきた感がある。とにかく自分が手に負えない。外でなんか獣みたいなのが吠えててこわい。食うか食われるかだろ、みたいな価値観、そろそろ卒業したいんだけど何から始めたらいいんでしょうか。優しくなりたいというのとも違くて、この薄っぺらい全能感が手に負えなくて怖いから手放したいってことを言っています。

小手先でしかない。上っ面だけすべすべにしておくのは昔から得意で、意地汚い。人に何をされたとかより、飲み込んできた自分の狡さにじっとり首を絞められていていよいよ苦しくなってきた。ただ己に返ってくるだけなら甘んじて受け入れるが、おそらく他人にとっても凶器なんだろう。こんな形で、人に影響を及ぼしたくはなかった。

私の価値にこの強すぎる生命力が見合わない。落ち着かないな、恐ろしい。

言葉に頼りすぎているのかもしれない。今この瞬間も含めて。言葉が何かを解決することばかり望んでいる。でも言葉の先に私が、他人が、心から望んでいることが、本当にあるんだろうか? 最近神社によく行くけれど、そこでも言葉で祈る。言葉で祈って通じるんだろうか、祈りとは言葉なのか。軽んじてないだろうか。言葉を使わず、感じたり留まったり、……許せるんだろうか。許すというか、そこに解を求めずにいられるんだろうか。なんという浅さか。

「27才 つらいです」(27才•女性•東京都)

「27才 つらい」でググってしまった。とてつもなく抽象的な問いを手にインターネットの海に漕ぎ出してしまった。大変だ、あと2ヶ月弱で27才も終わる。27才が終わった瞬間にこの不快感から解放されたら良いのだが、そうは問屋が卸さないだろう。ああ、どうすれば……藁にもすがる思いで開くのはそう常にGoogle。教えてくれ、夜な夜なわたしを襲う不安の正体と、常にうっすらイライラしている原因を。

今日上司との1on1でついに言われてしまった。「イライラしているのがオンラインでも伝わっている」と。やばすぎる、絶対絶対なりたくなかった大人になってしまっている。イライラしているのは紛れもない事実だ。誰か、何とかしてくれ、叫びたい。しかしそれは隠さなければいけない。社会人なのだから感情はコントロールしてほしい、してほしかった。それができない、無意識のうちにそこまでの境地に達してしまったか。向かう先はどこだ、鬱か?適応障害か? なんだってそんなにイライラする理由も不安がる理由も、側から見たらないはずなのに。

 Googleは有能だ。わたしなんかの数千倍、有能だ。すぐに答えを教えてくれた。

https://www.lifehacker.jp/amp/1607010life_crisis20s/

ちゃんと名前がついているじゃないか。名前っていうのは便利だ。人に安心感をもたらす。名前はついていることが大事だと「シン・ゴジラ」でも主人公が言っていた。その通りだ。どうやらわたしは

クォーターライフクライシス

らしい。人生四半期過ぎましたってところで、無気力や先の見えない不安感に心をやられるやつだそう。自分でも「若さ」が失われていくことに怯えているんだろうな的な仮説は持っていたものの、それがじゃあ具体的にどういうことで何の不利益に怯えてるんだいってところまでは分からずやはり漠然としていた。それが詳細に解説されていて腹落ちしたんだが、簡単に言うと「本物の大人」たるものにならなければという焦りに近い。要はまだ20年ぐらい生きた程度じゃ、自分の意識も周りからの扱いもまだ子どもで、大人になりきれていないということなんだろう。人によるんだろうけど。わたしは特に「は?大人ってなんだよ、説明しろよ」と好戦的な態度で生きているだけに、症状の程度が重そうだ。定義がいつまでたってもできないのがモヤつく。わたしはわたしが思う大人に早くなりたいのに、年だけ食ってそれが何かも説明できない。時間だけが過ぎていく。申し訳ないがずっと子供でいたい。ていうか大人ですとは名乗れない。無論子を産むなんてやめた方がいいよ絶対、という状態。子供に対して同族嫌悪を抱く始末。やばいのだ、活字にするとかなり厳しい。

このライフハッカーの記事を読んで目から鱗だったのが、クォーターライフクライシスには5つのフェーズがあるということ。あと1つめのフェーズとして、とにかく「自分のした選択に閉じ込められてしまった」ように感じると。これがすんごく当てはまっていて、言い換えると変化を恐れている状態に近しいのではないかと思う。自我もだいぶ確立してきて、仕事をする上でもそれなりに自分のやり方みたいなのが見えてきて。ただこの先もずっとそれで通用するかと言われたら多分NOで、そこまで見えてるけれどじゃあ次にどうしたい?も、どうしたら?も見えない。現状に不満があるわけではなく未来が不安で、それが今に波及してしまってずーん、みたいな。2つめのフェーズで、大きな変化にうっすら期待しちゃうのもそう。会社員辞めれば?と常に考えているが、多分そういう問題じゃないこともその先に待ち受ける展開も読めている、動けないし動くことが正でもなさそうだ。そして来るフェーズ3…………衝撃なんだが、結局、いろいろ変化や破壊を選択するってこと? フェーズ4は"人生の再建"…………?人生の再建ってすごいパワーワードでは? 人生のスクラップアンドビルドが必要ってことであってる?

ここまで読んで超混乱。いやぁ、ハードモードすぎる。でもやっぱ何らかの形でフェーズ3、つまり変化や破壊を選択したと自覚する必要があるんだと思う。それが転職なのか結婚なのか出産なのか、そういう社会的に身を置く状況を変えること全般だけを指すわけじゃないんだろうけど想像がつかない。しかも手当たり次第、変化を望むのも無謀な賭けに出るのも今ある環境を放り出すのも現実的に無理なわけで。え、何ができるの?っていうフェーズ3の手前でわたしはおそらく止まっているんだとわかった。皆さんはどうですか? 今どこですか。

……真面目に、どうしていきたいのかとか、どうなりたいのかとかどういう状態でありたいの?ってことを問われているんでしょうね。よく職場で聞かれる嫌いな質問。思い出すだけであーまたイライラしてきた。職場は何もしてくれないから適当に答えるとして、己の中では答えを出せよと、仮でもいいから答えを出してそこに向けて変化を選べというメッセージがぐちゃぐちゃな状態で心の中で洪水を起こしているんだと。そういうこったね。大人って、ちゃんと自分で自分の生き方を決められる人のこと言うんだね。自分自身の期待値に対する自分の能力や機会の限界と向き合わなければいけないし、変数も多いし、言うほど簡単じゃないけど、でもたぶん"決めた"っていう事実が大事なんだろうね。この先例えば苦しくなっても"いや、でも27才のとき決めたよね"っていう記憶が支えになる瞬間が来るんだろう。決めたからやりきろうとかではなく、決められる自分に自信を持つのでしょう、大人は。はぁ、わたし何にも決めたくないもんな。面倒くさい。そもそもなにから考えたらいいんですか? それもわたしが決めるんですね、そうですね。

 次に読んだのがこちら。https://meetscareer.tenshoku.mynavi.jp/entry/20220622-nagai

なかなか抽象的なテーマだけど、クォーターライフクライシスの乗り越え方がわかりやすく入ってきた記事。この方の言語化か上手いのと、ライター&編集の方々の力量とが窺い知れます。第3の選択っていい言葉だよね。最近めっきり考えることが減ったのは、自分自身がどうなるか分かりきってる選択肢しか手の中にないからだと気付かされたね。

わたしはこれを挑戦とか成長といった言葉には置き換えたくはないという謎のこだわりがある。何かを劇的に変えたいわけでも、未知なるものに挑みたいわけでも現状に不満があるわけでもないの。自己否定はもうたくさん。獲得してきたものもたくさんあるんだから、安易に自分を殺したくはないしそんな思いまでして成長も挑戦もしたくない。そういう意味でも、培ってきた第1,第2の安パイ的なカードも常に持ちつつ、第3のカードを探して時にはそれを切ってみる…っていうイメージ。変化していくってのはまあ労力がいることですが、少しずつ壊して変えていって何とかまあ脱皮して大人になっていく…んでしょうね。10代、20代前半の時と違うのは守るものができたところだと思う。それはこれまでの成功体験や努力の記憶や、単純に家族だったり収入だったりね。緩やかに、第3の選択肢を模索していきたい……ね。まあでも今後人生の再建を控えている身としては、仕事でイライラが止められないぐらい余裕がなくなるのは仕方ないっていうか(よくない)、納得できる心のサインだと感じた。余談だが少し前から読んでいるお医者さんのnoteにも、子ども嫌いの彼女が母親になった理由として、未知の選択だったから、と言っていてとても納得した記憶がある。もし自分が100人いたらそのうち99人は親になるのを止めるし、親にならない選択をするがたった1人、やってみてもいいんじゃない?という自分がいてそれを選んだと、まあそんなことが書かれていた。字面だけ見たら子ども好きで親になった人になんか言われそうだけど、自分って実際複数の価値観がまとまって一人になるわけだから、多数決ではないですし、すごくよくわかる感覚だなあと思った。

よくママに、あなたは教科書通りに育っていると言われたけれど年を取ってもその通りだ。みんなが悩むことに真正面からちゃんと悩む。だからわたしの悩みには大抵名前がついている。最大公約数的でとっても分かりやすい。ありがたいことに大衆的な悩みだから解決の糸口はGoogleで見つけられる、よかったね。

 

 

生への執着

ここ最近の不安の背後にはいつも、喪失への恐怖が流れていて、夜も眠れないほどだった。不安が襲いかかってくるのは決まって、夜で電気を消した後だ。夜に考え事をしてはいけないとよく言われるけれど、別に考えたくて考えているわけではない。ただひとりでに胸がざわざわしてくるのだ。説明が必要だった。納得したかった。恐ろしいことは起こらないと。孤独である。孤独とはまさに今のことだ。宙に浮いている気分で、ふわふわと生きている。見えない糸が切れた瞬間、夢から醒めてそこは地獄だろうと思うと、人に優しくしてこなかった自分を呪う。しかしそんな下心で人に優しくしたところで、彼らはつなぎとめてくれるだろうか。「許されたい」と思いながら生きるのは、申し訳ないが趣味ではない。弱々しく生きるのはやはりそぐわない。ではどうしたらいいのか、毎夜得体の知れない恐怖に耳を傾けてしまう。気づくと少し、生から遠いところにいる。そして昼間もまた、なんだか周りに人がいない気がするのだ。静かだなと思っていた。随分遠くまで来てしまったのではないか? 心地よく舟を漕いでいるうちに、ここはどこだ? 手を取り合える人は、二人、もしかしたら二人以上必要だったのか? そんなにたくさんいて本当に彼らがわたしをこの世界につなぎとめてくれるんだろうか。彼らが? なぜ? 彼らを使ってまでなぜわたしは他人につなぎとめてもらわないと生きることすらままないのか。許されたいと願い続けているのはこのわたしではないのか? わたしが生きる理由として、もし子どもを作ったとしたら、それもやはり赦してもらわなければならないのだろうか。孤独とは今のことである。喪失への恐怖が今日も心をざわつかせている。すべて跳ね除けて、今だけ見つめて理由なんてなくても生きていて、淡々と。そこにあるものだけを見て。大丈夫、なんとかする、なんとかするからと唱えるのはまた今日も紛れもなく自分で、そうすると少しだけ霧が晴れて安らぎを覚えるのだ。

無責任な態度

思想、宗教、文化、家庭、女、子ども、親

考えることが面倒になり無責任な思考放棄にも最近慣れてきた。とにかく働くことは面倒だったが、近頃は答えが出ない問いは始めから考えなくなった。考えたところで私は何にもできない、社会は絶望に向けて走っているような気がしてならない。悲観的で無責任な態度を取り続けている。

 

一つのテロをきっかけに、家庭と子どもの関連付けが薄れ、家族と個人と切り離される流れに世の中が向かうことが正しいのか否か、わたしには判断がつかない。内心何を思っていたとしても口に出して言うのは憚られる。何を思っていたとしてもだ。自粛警察なんかより自主規制の方がよっぽど窮屈である。

 

目に入るのはゴミばかりな気がする。ゴミのような会話を耳にし、目にまたゴミが入り、生きていくのが億劫になり、それでも贅沢がしたい。それぐらいの反射神経で毎日を反復横跳びしている。とても幸せで問題ないだろ!と怒鳴りたくなる。なんでこんなに苛々しているんだろう。ピルのせい? 保険診療がきかないピルってなに?誰が決めてんの?どういう理由だよ。だるすぎる、本当にだるすぎる。

私がつくる私ではないもの

最近、私が新しく生まれた。たまごから孵ってすくすく育っている。親である私が消えそうなほどの存在感を発揮している。いや、親である自覚はもはやない。動き回るそれを見ていたつもりが今は同化しそうで怯えている。偏屈で物を斜めから見ることが好きで退廃的で物臭な親である私が消えそうで、消えそうな私をここにきて必死になって掴んでいる。主体はどこにあるのか。私の主人は誰なのか。でも生きづらく偏屈な私も嫌いではなかったんだと気づいた。何も生まない眼差しを、いつか何かを変えるビームに変えられると信じていたんだろう。だから失いたくないのだ。それでも自己肯定感を至上命題として生きている若さの塊へ、私が言えることは何もない。私は恵まれていたのだ。器をそれぞれにきちんと準備して静かな抵抗とともにバランスをとりながら、生まれてきた子どもには大きく、大きく育ってもらいたい。都合が良いが、親とはそういうものなのだ。やはり主人は私なのだ。私がやはり親なのだ。