うみのくるしみ

よっこらしょっと重い腰をあげてさ

私がつくる私ではないもの

最近、私が新しく生まれた。たまごから孵ってすくすく育っている。親である私が消えそうなほどの存在感を発揮している。いや、親である自覚はもはやない。動き回るそれを見ていたつもりが今は同化しそうで怯えている。偏屈で物を斜めから見ることが好きで退廃的で物臭な親である私が消えそうで、消えそうな私をここにきて必死になって掴んでいる。主体はどこにあるのか。私の主人は誰なのか。でも生きづらく偏屈な私も嫌いではなかったんだと気づいた。何も生まない眼差しを、いつか何かを変えるビームに変えられると信じていたんだろう。だから失いたくないのだ。それでも自己肯定感を至上命題として生きている若さの塊へ、私が言えることは何もない。私は恵まれていたのだ。器をそれぞれにきちんと準備して静かな抵抗とともにバランスをとりながら、生まれてきた子どもには大きく、大きく育ってもらいたい。都合が良いが、親とはそういうものなのだ。やはり主人は私なのだ。私がやはり親なのだ。