うみのくるしみ

よっこらしょっと重い腰をあげてさ

一人の女として意見しておく

かわいい人にかわいいと言うのはよくないからやめようみたいな文章読んで昨日からずっともやってる。まず表現方法。端的に言えば、男の立場で女をひっくるめて語らないでほしいし、胸が大きい方がいいよなとかかわいい方がいいよなと同じように、女はかわいいって言われるの内心嫌なんだよって話について共感を求められた感じがして嫌だった。ただ前者と後者では道徳的なレベルが後者の方が少し上というだけであって、その道徳について共感を前提に語られましても。
僕としては結構ありえないという話なら、男は〇〇すべき、〇〇しないべきというのはどうなのだろう。かわいいと全員の前で褒めてくれるような男の方が私は好きだが?ねえ私も女に入ってる? そりゃTPOってものがあるから職場の朝礼とかで言われたら私はドン引くけどこれもあくまで私の感覚であって。朝礼はNGだけど給湯室ならOKっていう、個人の感覚。とにかくそういうレベルの話を、好意を伝える上で見た目のことを言うのはよくない、それは二人になった時に言うべき、とかなんならそれについて女の心情を代弁する的な演出をかけた文章にするのは、正直一人の女として気持ちのいいものではなかった。主語が入れ替わってるのは、共感してもらえるというよほど強い確信があったんでしょうか。
見た目に触れる=好奇の目で見てるとは思わないし、それはどういうシチュエーションでどんな言葉を選んで伝えるか、相手も自分の人間性と関係によってはじめて決まるものであって、それは道徳の定規では測れないと思う。少なくとも私は。測るのがいちいちだるいから俺は見た目には触れない、そこはデリカシー問われる部分だと思うから私は伝えない、とか個々人のルールがあるのは構わない。なんならそれぐらい思慮深いひとの方が私は好きだ。だけどそれを人に、共感を求める形で書いてしまうことに疑問となんなら怖さを感じる。内輪でやってほしい。内輪でというのは、主語を自分自身に閉じてほしかった。男を個人の主義でしばりつけて、それで果たして世界がよくなるんだろうか?

ここからは表現ではなくて内容について。男はずっと男でいられていいよね、なんて思ったことは一度もない。歳を取る過程で社会に求められる役割が変わること自体は男も女も同じだ。ただ女の方がその役割が偏っていたり選択肢が少ないという問題はある。だけど男は自由でいいよななんて少なくとも私は思わない。私の周りの男たちは稼ぎがないから結婚なんてできねーよと嘆いたり、車道をあえて歩いてくれたりする。別に求めちゃいけないけどそうしてくれる。理由はいろいろあるんだろう。好きでやってる人もいれば内心やりたくないけどやってる人もいるでしょう。社会や、人が2人以上になると漂う空気みたいなものが役割を暗に押し付けていて、その是非は大いに議論されるべきなんだろうが、是だろうが非だろうが女ばかりが役割を押し付けられてるわけではない。程度は大なり小なり人により、性にもよる部分もあるがないとは言えない。女である私は少なくとも、男の子はずっと男の子でいられるとは思わない。
組み敷かれたらそりゃ抵抗できないという生物的な恐れはある。常にうっすらもっている。でもだからといってかわいいという言葉で好意を表現することまでやめさせなきゃならないのか? かわいいから好きになることだってあるだろう、かっこよくて夢中になっちゃうこともあるだろう。かっこいいですねと口走った瞬間から生まれる恋もあれば、次の日から目すら合わせてもらえないことだってある。それをやめさせたい人は、いったい誰なんだろう。男の公然としたかわいいねを否定する人は、女も男にかっこいいと言ってはいけないと同じくらい強く主張するんだろうか。それとも女は相対的に男より力が弱いから危害を加える可能性が低いとして許されるのか?いったい何ならいいんだ。ジャニーズにきゃあきゃあ言うのは、どうぶつの森でかわいい外見のキャラを集めるためにかわいくない外見のキャラを冷遇して引っ越しさせるそのやり方は、ゲームのシステムはどうなんだ? そもそもなぜそれらのシステムがここまで受け入れられているかについて考えたことがあるのか? ようは、目の前の相手のことを尊重して、配慮しましょうというだけの話ではないのか?
尊重や配慮にはさまざまな形がある。人は、男は、女は、こうあるべきという定義は結局、堅苦しい役割の押し付けを再び生み出しているだけではないのか。たくさんの人がいる、たくさんの考え方がある。議論が生まれるのは良いことと思うが、共感を求めるあまり人の生き方について、〇〇すべきだと確信を持って断言するのはかなり怖い。私の意見ですが。