うみのくるしみ

よっこらしょっと重い腰をあげてさ

インターネットは大きな矛盾を孕む海

皆それぞれの悲しさをインターネットに持ち寄っている。承認欲求なんて便利な言葉で片付けられがちだけど根底に潜むのは悲しい気持ち。みんなの悲しい気持ちがよく、伝わってくる。私も同じだよ、と語りかける。悲しくなんてないよと笑ってる人も、お役立ち情報を金のために発信してる人も旅先で撮った写真をせっせと投稿している人も皆、悲しい。それはなぜだかわからない。生きることは辛く苦しい。物足りないくらい幸福なのに孤独は平等に襲ってくるしやはり自由は首を絞める。どこへ行っても一人じゃなくて、どこへ行ってもたった一人でいるような感じがする。必死で爪を立てているのか、手垢をつけているのか、唾を吐いているのか、笑いかけているのか。インターネットの世界にいるあなたもあなたもあなたもね、どんな顔をしてても悲しい。誰かに手を伸ばして、生きていることを証明しようとして、そうじゃなきゃここに居らんないような顔して歩いていたり、大きな車に乗っていたりする。たまに飛行機も飛んでいる。楽しくやろう、笑っていようとすればするほど矛盾が大きくなって悲しみが肥大化する。引いては満ちて絶えず変化しているのに、ずっと音がしない。ここは音が鳴らない場所みたいだ。波がたまに荒れるから誰かと手をつなぎ続けるのは難しい。みんなも悲しいことが分かった、分かってよかった。慰め合っている様子を肌で伺う。砂浜でガラスを踏んだ。足の親指の付け根から血が出ていた。砂浜を汚さないように音のしない波に向かって歩き始めたら、誰かに肩を叩かれた気がした。気のせいだった。

不快にしたので謝ります

大勢の方を不快にしたので謝りますっていう謝罪が増えてますね。別に私は他人を不快にしても謝らなくて良いと思うので、この風潮なんかキモいなーと思いながら見ています。好みや、何に対して嫌悪感を持つかは人それぞれなのになんで謝らなきゃいけないんでしょう?大切な人を傷つけてしまって許されたい、好いてほしい人に嫌われたくないのに、嫌われるようなことをしてしまった/言ってしまったから自分への評価を下げないでほしいので謝りたい、ならば分かるのですが。大勢の人を不快にするのは悪いことなんですかね? 理由が意味不明。僕のこと叩くのやめて!ってこと?意味不明。たくさんの人に嫌われたくない、より多くの人に好かれたいってことですかね?

嫌いなものを嫌いって言ったらダメですかね。なんでですか? それを好きな人が傷つくからですか? 自分が好きなものを他人が好いてくれないと気が済みませんか? そもそも好みも好みを公言するのも自由では?スポンサーでもついてんですか?

「嫌いなものを嫌いって口に出すのはやめよう」みたいな優等生的な発想には反吐が出ます。お前が勝手にそうしてろ、人に求めるな、以上って感じですね。嫌いなもんは嫌いだし、好かない理由を語ってよくないですか? 個人のSNS、個人の発言、金が絡む訳でもあるまい。なんでそこまで他人の顔色伺って生きていかにゃならんのさ。それを他人に求めて心地よい世界を作ろうとするナイーヴさと暴力性に吐き気がします。そんな配慮で作られる世界は一見心地良く見えて、がんじがらめな同調圧力に押し潰されそうな、狭く苦しい世界だと思いますが、どうなんでしょう。少なくとも私はその世界線で暮らしていくのは無理なので、これからも好きなものは好き嫌いなものは嫌いを表明していこうと思っています。あ、もしかして、嫌いなものを嫌いと言えないのは金と名誉のためですか? そうですか。それなら納得です。

金と名誉を守るために配慮に配慮を重ねた結果、最大公約数みたいなつるんとした表面の人間ができあがりそうですね。言いたいことがあっても周りが反対しそうなら言わないんですか? 自分の周囲で酷いことが起きてても多くの人を敵に回しそうなら何も行動しないんですか? あなたの意思はつまり嫌われないこと、仲間、たちにはぶられないことにあるんですかね? そもそも言うべきことや言いたいことの基準とか線引きが自分自身の中に無いのかもしれないですね。本当につまらないし、つまらないだけならまだいいけど害悪だし脅威。いじめを見て見ぬ振りするのもコイツらだし同調圧力で他人の自由を制限するのもコイツらです。

何も考えてない人間は怖い。でもそれ以上に自分自身の考えてることに気付こうとしない、違和感を無視して他人に合わせる、無意識であることを言い聞かせてる人間が不自然で、不気味で、世界で一番怖いよ。


オリンピックやコロナ対策の諸々について

小さい頃、歴史の勉強をしていて、よく不思議に思った。勝てっこないって分かりきってる相手となんで日本は戦争なんかしたんだろう。誰か止める人はいなかったの?世論は?どんな空気の中で始まり、終わったんだろうか。不思議だった。
母に聞いてみると「戦争は知らないうちに、始まってるんだよ。やるってことに、なっちゃう。だから怖いんだよ」と答えが返ってきた。知らないうちに始まる。始めるではなくて、始まる。
どういうことなのか、最近ようやく分かった。この国を仕切ってる政治家たちの、コロナ禍におけるぐだぐだな意思決定。オリンピックに関する手続きのうやむや。……理不尽と非効率が多すぎて、ニュースを見ていて悲しくなる。開会式を見て、お祭り気分に浸る人のことをどうこう思わないわけじゃない。またその人たちから見てもこうして盛り下がるようなことをいう人間は疎ましいと思うかもしれない。みんなの意見はいつだってまとまらないよね。
ただ、消された功績や死んでいった人のことを思う。
リスペクトしようとか肯定しようとか、そういうのは勝手にやってりゃいい、大事だね、はい。でも批判や否定をやめたら私たち、やっぱり権力に都合良く使われちゃうんじゃない、気づいたときにはもう始まってるんじゃない?
善良な市民は、人が国家に殺されても愉快な音楽が流れてれば口を閉ざすの? 愉快な音楽が醸成する楽しげな空気に流されて、それに乗っかって生きることに、インターネットの片隅で私はNOと表明しておきたい。

私たちは表現なんかせずとも生きていける

清潔な衣服を着て、栄養のあるものを食べ、住む場所と安全に眠れる場所があれば私たちは生きていける。金を稼ぐための表現に魂、なんて言い方は高尚だが、まあ言うなれば自分の本心のようなところまで売ってしまうと、権力や消費の奴隷になってしまうよ。私たちは表現なんてせずとも生きていけることを忘れないで。それらは所詮、売り物でしかない。なんでもかんでも売りに出さなくたって生きていけるのに、なぜ四六時中、市場を開いてしまうのかしら。

さっき感動したこと

さっきね、自分だけじゃなくて他の人のことも、ああ、ずるいなあ〜うんうん、ずるい。でも仕方ないよね、厄介だよね、うん。と泣きながら頷けたので世界とちょっと距離が縮んだ気がして嬉しかった。そういう、人の、どうしようもない痛いところを仕方ないで片付けられなくて、延々こねくり回して納得したがる私も厄介なやつなので、そういう痛い思いをした日が心の中が社会みたいになっちゃってぎすぎすするんだけど。コロナ禍で一人の時間が増えて、絶対にその社会に侵されない神聖な部屋みたいなのが心?か頭?の中にできて、そこに駆け込むと守ってもらえる。社会はこわかったねって言ってもらって少しの間慰めてもらうと、まあいっかってなって出ていくとさっきまであった社会がなくなっている。不思議なことだ。不思議だけど、すごい。ちゃんと大人になってるじゃない、折り合いをつけて働いていて、とっても偉い。さあコーンスープを飲みましょう。

風が吹いてなくて寒くなくて無音で光が当たらないのに白く見える不思議な部屋があってね。

SNS向いてない

表アカとか裏アカとかって言葉が嫌いだしSNS運用という言葉にも抵抗がある。これは別にやってる人を批判してるわけでも批評してるわけでもなんでもなくて、私はその概念がよく分かりませんけど良いところや美しいものだけを他人に見せたいという欲求は確かに私の中にもあって、今こうしてこんなことをわざわざインターネットの海に投下してるのだって何らかの欲求を満たすためでだけど表や裏を作ってしまうとその顔の、表情の様子があまりに異なることに自分自身が驚き呆れ、かたはらいたくて、もう一人のさぞ美しい自分に対して共感性羞恥なるものが働く予感がして、とうとう美しいものが美しく見えなくなり丸めて捨てたくなるに違いないから、気が進まないのです。

もう六月だけど2021年の目標を立てた

もう今年も半年が過ぎようとしている。

今さらだが私は2021年の目標を立てた。忘れそうなので書いておく。


1. 9月の新人賞に応募する

頑張ってください。


2.健康に暮らす

まずルナルナを入れて課金するところから始めようと思う。ああ、お腹痛い。吐き気もする。つらい。泣きそう、てか泣いてる。どうしたらいいんだろう……健康な食生活と早寝が肝要、あとストレッチ。


3.健康に働く

仕方なく働いている。ニートになるまでの辛抱だ。このようなことで体調を崩したくないのでほどほどに働く。仕事や上司のことで悩むのは時間の無駄なので止める。


中身のない人生だ。空っぽだ。でもまあ確かに生きてるし、十分十分。一ヶ月の中で健康じゃない日が増えてきたので、とにもかくにも健康に、とくに食べるものに気をつけて生きていきたい。