うみのくるしみ

よっこらしょっと重い腰をあげてさ

教室、ホテル、家

教室って息苦しかったなあ。目に映るものをもっと純粋に、まっすぐ見れたら良かったんだろうけど、常に不安で疑問がたくさんあって嘘じゃない?その笑い。とか思ってて、給食は不味かったかおいしかったかよく覚えていない。なんでもかんでも牛乳と合わせて食べなきゃならないのは今思うとすごく無理な話だ。教師の存在も、最後までよくわからなかった。偉そうな監督者、テキトーな監督者、いろいろいた。教師としての自分にどこまで自覚的なんだろうか、教師としての自分はあなたの中の何割を占めるんですか?教師の顔しか見せないならば、こちらも教師の人としてしか接したくないから、本当のことを話すことはなかった気がする。一度だけ、高校時代の恩師に卒業してから会った時、本心で「教師の仕事は先生の天職ですね」と言った。教師をやってる人間と、なんだかコミュニケーションの取り方がわからなかったから拙かったけど、私は彼を教師ではなく人として尊敬していたからそう言ったのだと思う。教師という謎の存在がいつもこちらを監督していて、狭い空間で長時間、同じ行動を強いられる。こわすぎる。でも友人とかクラスの人とかより、教師の存在がいちばん不可解だったな。なんで教師になろうと思ったんだろう。教師がいる教室という構造自体に疑問だったんだろうなあ。今もなんだけど、なんだろうね。義務教育やそのやり方の意義みたいなことを体系的に学べば少しは納得できるんだろうか。別に義務教育反対みたいなことは言ってなくて、子どもできても学校通わせたくないとかでもなくて。ただ、どうしてあんなに居心地が悪かったのか、教師という存在が解せないのかを知りたい。私の人間性の問題かもしれないんだけど、表面上はまあまあうまくやってたものの、義務教育時代のあの空間に良い思い出が一つもないのはどうしてなんだろうね。

ホテルの部屋、乾燥がすごい。鼻の中がしばしばしてきたし、高いパックでさっきまで顔ベタベタにしたのに、短時間でカッサカサになった。隣で寝息が聞こえてるから良いものの、一人だったら夜怖くて起きてられない。電気を消して目が暗さに慣れたときにうっすら見えるものが家と違って落ち着かない。お家は退屈だけど、いつも守ってくれるから好き。お家にありがとうだし、心地よく過ごせるようにいい感じに調節してるのもナイス自分って感じ。非日常は道中が楽しくて、ピークを過ぎると焦りと謎の緊張感が生まれるのはなんなんだろうね。そうだ、最近たまにいるホテルばっか泊まってるインフルエンサーの女の顔はカピカピなのかな?体質の問題?肌カピカピにしながらいっぱい投稿してるとしたら、別に止めはしないし私に関係ないけど、悲しさだなあと思う。悲しいってわけじゃなくて、悲しさ。象徴。見えないだけで。何をやるにしても、メリットやデメリット、正義と悪、相反するものを孕んでいると思うと生きる気力がなくなってしまう。現に気力は後退している。だから人は盲目的に信じられるものを求めるのかもしれないね。信じるものなど何もなくても生きていきたい。仕事も同じで、それって人を幸せにするけど不幸にもする活動ばかりです、が、金を稼ぐためにやる。その連続です。どこにも軸がないというか、生きるため幸福のために都度、選択するスタイルを貫いているのだけど、それってすごく大衆的で、大衆的な自分は大好きだからいいんじゃない。大衆は嫌いだけど大衆的な自分は好き。女嫌いの女体好きみたいな。やっぱり卑しいったらこの上ない。信じるものなど何もなくても言葉ばかりで祈っていても生きてていいよね。

歳をとるとね、受け入れられないことも受け入れられるようになるのよ。とママが言っていた。それならば早く歳をとりたい。早く歳をとりたいと思いながら死んでいくような気がする。そんな人生、幸せ。