うみのくるしみ

よっこらしょっと重い腰をあげてさ

すんと立っている

人生にはいくつかターニングポイントがある。それは別に大学を卒業したとか就職したとか転職したとか、社会的に分かりやすい時とイコールではない。なんというか、答えが出たときというかこれまで長いこと悩んでいたことを上手く言い表せて、腹の底から納得できた時がそれに当たる。あ、わかったぞ、と。それこそ5、6年悩んでいたことに終止符を打てた瞬間。そこからは丁寧な答え合わせで、納得をまた噛み締め、味わうような日々が続きその中でまた課題が出てきて悩み始める。次のターニングポイントがいつになるかはわからないが、考え続ける。ヒントのような出来事や誰かの言葉や経験がつながって時期が来ると、ちゃんとわかるのだ。いつか分かると思いながら考え続けていて、それが自分への信頼に繋がっている。課題の根源にあるのは漠然とした不安で、いつも怯えている。弱い人間だ。現実的な対処の方法と合わせて、心の持ち方についてよく考える。私は26を過ぎたあたりから、35才以降のことが不安でいる。なんだか凄く揺らぐ気がしていて、揺らいだ自分を支えられるかは今の過ごし方にかかっていると思っている。だから常に、これは未来の私を助ける選択だろうか、ちゃんと支える過去になってくれるかと問うている。一つ気づいたことがある。私は割と好奇心旺盛で、知らないところに行くのが好きで知らない人を知るのが好きだ。話したくないのに知りたい。傲慢なことにね。ただ好奇心旺盛なのはいいことだと思う。嫌いだったものも好きになる。興味を持つようになる。変化を起こして楽しんでいきたい。最近魚が食べられるようになったことだし、肉ばかりでなく魚レシピを覚えたい。変わらないものに頼るのではなく、変わっていくものを乗りこなしていけるようになりたい。そのためのゼロ地点を見つけたい。なんにせよ練習が必要だ。

27才の8月 近況

地味な一年になるだろうと思って迎えた27才だが、想像以上に地味である。気分は悪くない。最近感じる変化について書いていく。


化粧が顔に合わなくなった

たまに化粧をすると10年以上前のギャルみたいな顔になる。日に焼けたからか? 田中みな実が美にこだわる理由が少しわかった気がした。化粧も服も髪型も、別にこだわりなく似合ってればなんでもいいと思っていたが、これまで似合っていたものが似合わなくなっていることに加齢を感じた。これからは日焼け止めをちゃんと塗るとか、お風呂上がりに保湿するとか、少し良いドライヤーを使うとか。


丁寧な暮らしをバカにするのはやめたい

大変性格が悪いので、私は丁寧な暮らしを心底バカにしている節がある。丁寧な暮らしを好んでいてそれができる人はうさぎと亀でいうところの亀で、私はうさぎだ。別に私たちは競争しているわけでないと頭ではわかっている。そして人は生産するために生きているわけではないということも、頭ではわかっている。なのに生産的でない行動をとっている状態に焦ってしまい、やきもきする。選択の基準はいつも生産性があるかどうかだ。生産的でなくてもそれをよしとできる亀を、その余裕を、私はまだ許せないようだ。丁寧な暮らしとかいってるやつはたいていいうほど生産してないし、そのツケはこちらにまわってきているというのがうさぎの持論だ。こちとら殺気立ってなきゃ生きてる心地がしないのに…。

とはいえもう戦場はこりごりなので、穏やかでいたい。恋愛市場もまっぴらごめん、職場にこいと言われるだけでイライラする。親しくない人や仕事の人とはあまり関わりたくない。つまり大いなる矛盾の渦のちょうど真ん中に立っていて、わりと視界が悪い。どうにかしたいが耐えるしかないのか。


体力気力モチベーション、すべてが低い

しかしまあ、体力の衰え、気力の低下、なにより殺気立って生きてたところで別にその先何もないってことに気づいてしまった今。実は亀でもいいんじゃないか、そうやって、ゆるゆると生きてもいいんじゃない? と囁く己の声が聞こえる。

甘えていいのか、その声に身を委ねてよいのか、そもそもそれが自分にできるのかまだわからない。うさぎは体力が尽き、亀の仲間にもなれない。そうだ、世の中は別に二項対立でできてないのだとここで思い出す。


かなり低速で歩いているので、同じ景色がずっと続いている。景色が一変するような何かも別に求めていない。田舎に来てしまったみたいだ。カントリーロード〜♪この道〜♪ずっと〜♪ゆけば〜♪

どこに続いているんでしょうか。またも、幸福でしょうか。




いよいよ組織で生きていけないと悟った

「組織」とは、ある目的を目指し、幾つかの物とか何人かの人とかで形作られる、秩序のある全体。そういう全体としてのまとまりを作ること。また、その組み立て方。

だそうです、Oxford language日本語辞書によると。

 わたしは大学を卒業してから5年間、何らかの会社という組織に属して働いてきましたが、タイトルにも書いた通りでいよいよ組織に属して生きていくの厳しくね?……と感じはじめました。三つ子の魂百までってことわざの通りなんですかね? おじいもババーもママも、家族の構成員が誰ひとり大して働いていない家庭で育ちました。多分昔に稼いだんでしょうね。それかお金の当てがあったんでしょうね。でも家族からは「あなたは働かなくちゃ生きていけないから」「自分の食い扶持は自分でどうにかすること」とよく言われていました。なぜわたしだけ?と思いながらも、それでもようやく私の代から"普通"になれるんだ、と意気込んでいました。学生のときから、資産残せよと思いつつ残せる資産など家にないことに気づいていたし、あらゆる面で「普通ではない」「自分たちと違う」と世間に判定されるといかに生きづらいかを知っていた分、最大多数に擬態する訓練を常に自分自身に課していたように思います。家族の中で私だけは違う道を歩み"普通"になるんだと、社会人の最大多数であるサラリーマンに、なるべくしてなりました。「世間の人はみんなもっと大変なのよ」とよく家で誰かが言っていました。うちは天上人か何かの家系なんだろうか? よくわからないけど、世間と同化することによって大変な思いをするのは嫌でした。世間の"普通"を構成する人の中でも、優位なポジションに立ったほうが、いろいろ楽に進められると思ったんでしょうね。私は別にやりたいことも欲しいものもなく、ただ手っ取り早く普通になりたいだけでしたので、それを目標に、興味はないが就職に有利な学科を選んで進学してみたり、やりたくもない仕事を選んでみたり、とっても強い自覚を持ってアイデンティティを消すことで、普通のサラリーマンになることに成功しました。アイデンティティなんて普通になるためにはむしろ不要で、足を引っ張るものだとすら思っていました。学生のころ目立たないように、よく個性を殺せと唱えてました。変わってるねと言われて目立つことがいやだったし、何が人と違うかもわからなかったし、何を殺せば周りが仲間と認めてくれるかもわからないまま、ただ個性がそれを邪魔していると思ったので殺せ殺せと唱えながら生きていました。癖になっているんだと思います。今となっては「別にあんたは普通だよ、凡庸な11才で、14才で、17才だった」そういって抱きしめてやりたいです。ママに、わたしは目立ちたくない、みんなと同じになりたいと言ったら「それじゃきゃりーぱみゅぱみゅになれないよ」と言われました。きゃりーちゃんになるためには、目立つことを恐れてはいけない、個性は殺す必要ない、誰にも迷惑かけてないんだから、と。でもそれでわたしは生きていける自信がありませんでした。普通じゃなくても金があって生きていけたあんたたちに何がわかるんだと、家族に対して思いました。多数派にいた方がいつだって有利なんだと。普通に生きていくためには、多数派にしがみつくんだそのために個性なんて殺すんだと。そうして組織に所属しましたが、自分が言ってることとやってることが合わないんです。あんたに普通になりたかったけど、もうそれもどうでもいいです。だってつまんない。出世したくねえし、他人の出世も気になりません私は。あなたたちと違うんです。どうでもいいんです。それなりに訓練してきたけど応用がきかなかったのかな。擬態し続けるのは疲れますね、もう我慢がきかないんです。じゃあわたしに何ができるんですかね。何もできないじゃないですか。媚び売ってヘラヘラしているだけじゃないですか、でもそれが普通だったんですよ、わたしがみてきた普通がそれだったんです。正しかったんです確かに。でもちゃんとできないんですよ。やり続けられない。どう生きていけばいいかわからないんですけど、それも普通なんですかね。なににこだわってるんですかね、大丈夫です?

 

自由を求める青い鳥へ

ピヨピヨピヨピヨ、ピヨピヨピヨピヨ………………………

ここ最近私の心の中にいる鳥が大変煩い。四六時中鳴いています。自由を求めて朝から晩まで鳴いてます。飼い主も制御不能で、なんだか疲れちゃってます。

鳥よ聞け。

お前は一体いつからそんな偉くなったんだ。我慢する必要なんてないんだ、自分の好きなことをやって生きていこう!なんて搾取ビジネスに影響を受けたのか?自由は諸刃の剣だと高校時代、恩師に教わったのを忘れたか? 労働をやめて寝たい、金を湯水のように使いたい、無意味な労働から解放されたい、好きなもんを好きなだけ食べたい、贅沢して快適に生きたい、子供に不自由させたくない、男の手垢がつくのがきもいので愛想の良い自分を脱ぎ捨てたい、どれも結構な願望だが今のお前にそれを可能にするだけの力があるのかと問うている。うんざりすることだらけだが、耐えなきゃいけないときもある。

いい気になるな。お前は何もしていない。ただ少し戦略的に愛嬌を振りまけるし、若いし、妻や母という分かりやすい肩書きがないから、たまに私より少し金を持っている男が近づいてくるな? だがそれはお前の実力ではない。あらゆる意味で利用されているだけだ。悪いことばかりじゃないがそれも含めて、交渉であり契約だ。勘違いするな、お前はまだ自由になれない。

 残念だ。残念極まりない。

 しがらみから、面倒ごとから、酒場でのホステス役から、他人を疎む気持ちから、役割から、不安から、未知への恐れから、お前はまだ自由になれないことを受け入れて、じゃあどうするか考えろ。鳥は少し鳴くのをやめて、飼い主に協力してほしい。お前には力がある。それだけ鳴けるんだから、いつかきっと私を取り巻くすべてから自由になれる。そのために力をつける。ひとまず鳴くのをやめて、じゃあどうするか考えることに注力しよう、いいね。ただ自由が幸福かどうかは、わからない。それは孤独で、首を絞めてくると聞いているが、それならなおさら自由を乗りこなすだけの技量をもってから手にしないとお前は死ぬ。死ぬことになる。分かってくれ。爆速でその技量とやらを身につけるから、あと少し待ってほしい。

 これまでも私は鳥を裏切らなかった。だから鳥は期待して鳴いている。願おう。自分のことだけは信じられる。

最近の印象

疲れないはずはないんだよな。

仕事では心無い言葉を吐かれ、できるもできないも選択肢はないままにタスクを投げられ、正解には程遠いやり方ですべてが進んでいく。

母との距離感は年を経るごとに掴めなくなり、私の幸福は母からしたらただ寂しく、私が幸せになることが明確に親不孝だとしたら何もかもわからなくなる。

義実家はとても良い雰囲気で、それが家族を構成する一人ひとりのたゆまぬ努力なのだとしたら、それができない私の家族とそして私は、一生交われないのでは?交わる存在でないのでは?

Twitterにはフィクション映画の表現を自分の過去と重ね合わせてあーだこーだいう人が跡を立たない。皆自分の思い通りにしたいのにそうならないから、匿名で騒ぐ。

衛生観念の異なる友人に会って、気が休まらなかった。

無邪気な人はこわい。いとも簡単に社会の毒に染まる。悪人になったというほどではないが、毒としか言いようのないずるさに、社会の中でただのし上がっていくために無自覚に引っ張られそれを良しとしてしまう姿に、なぜ私は諦めがつかないのだろう。

私は私で、着実に生きていて、確かに手応えも感じている。でも手応えとかなんとかいってるものに実体はなく、その概念は吹けば飛ぶほどどうでもいい、取るに足りないものなのかもしれない。とても怖くて、落ち込んでいる。

11/12 書き始めた!

久しぶりに手が動いたのでようやく新しいのを書き始めることができた。まだ何にも決めてないものの、主張の少ない無色に近いお話になりそう。
あえて「斜陽」を意識して、モチーフと描写にコントラストをつけてみる、気持ちいいので。
誰をどう絡ませていくか、シナリオを考えるのがとっても苦手でやっぱシナリオ教室に行こうかな。勉強したいことを勉強する感覚を久しぶりに思い出したい。今度は「お金」とか「将来」が絡んでこないから迷うことは少ない気がする。

教室、ホテル、家

教室って息苦しかったなあ。目に映るものをもっと純粋に、まっすぐ見れたら良かったんだろうけど、常に不安で疑問がたくさんあって嘘じゃない?その笑い。とか思ってて、給食は不味かったかおいしかったかよく覚えていない。なんでもかんでも牛乳と合わせて食べなきゃならないのは今思うとすごく無理な話だ。教師の存在も、最後までよくわからなかった。偉そうな監督者、テキトーな監督者、いろいろいた。教師としての自分にどこまで自覚的なんだろうか、教師としての自分はあなたの中の何割を占めるんですか?教師の顔しか見せないならば、こちらも教師の人としてしか接したくないから、本当のことを話すことはなかった気がする。一度だけ、高校時代の恩師に卒業してから会った時、本心で「教師の仕事は先生の天職ですね」と言った。教師をやってる人間と、なんだかコミュニケーションの取り方がわからなかったから拙かったけど、私は彼を教師ではなく人として尊敬していたからそう言ったのだと思う。教師という謎の存在がいつもこちらを監督していて、狭い空間で長時間、同じ行動を強いられる。こわすぎる。でも友人とかクラスの人とかより、教師の存在がいちばん不可解だったな。なんで教師になろうと思ったんだろう。教師がいる教室という構造自体に疑問だったんだろうなあ。今もなんだけど、なんだろうね。義務教育やそのやり方の意義みたいなことを体系的に学べば少しは納得できるんだろうか。別に義務教育反対みたいなことは言ってなくて、子どもできても学校通わせたくないとかでもなくて。ただ、どうしてあんなに居心地が悪かったのか、教師という存在が解せないのかを知りたい。私の人間性の問題かもしれないんだけど、表面上はまあまあうまくやってたものの、義務教育時代のあの空間に良い思い出が一つもないのはどうしてなんだろうね。

ホテルの部屋、乾燥がすごい。鼻の中がしばしばしてきたし、高いパックでさっきまで顔ベタベタにしたのに、短時間でカッサカサになった。隣で寝息が聞こえてるから良いものの、一人だったら夜怖くて起きてられない。電気を消して目が暗さに慣れたときにうっすら見えるものが家と違って落ち着かない。お家は退屈だけど、いつも守ってくれるから好き。お家にありがとうだし、心地よく過ごせるようにいい感じに調節してるのもナイス自分って感じ。非日常は道中が楽しくて、ピークを過ぎると焦りと謎の緊張感が生まれるのはなんなんだろうね。そうだ、最近たまにいるホテルばっか泊まってるインフルエンサーの女の顔はカピカピなのかな?体質の問題?肌カピカピにしながらいっぱい投稿してるとしたら、別に止めはしないし私に関係ないけど、悲しさだなあと思う。悲しいってわけじゃなくて、悲しさ。象徴。見えないだけで。何をやるにしても、メリットやデメリット、正義と悪、相反するものを孕んでいると思うと生きる気力がなくなってしまう。現に気力は後退している。だから人は盲目的に信じられるものを求めるのかもしれないね。信じるものなど何もなくても生きていきたい。仕事も同じで、それって人を幸せにするけど不幸にもする活動ばかりです、が、金を稼ぐためにやる。その連続です。どこにも軸がないというか、生きるため幸福のために都度、選択するスタイルを貫いているのだけど、それってすごく大衆的で、大衆的な自分は大好きだからいいんじゃない。大衆は嫌いだけど大衆的な自分は好き。女嫌いの女体好きみたいな。やっぱり卑しいったらこの上ない。信じるものなど何もなくても言葉ばかりで祈っていても生きてていいよね。

歳をとるとね、受け入れられないことも受け入れられるようになるのよ。とママが言っていた。それならば早く歳をとりたい。早く歳をとりたいと思いながら死んでいくような気がする。そんな人生、幸せ。